レポート Report

「働くこと」とは?

〜下村圭子さんの講演を聞いて〜

8月31日(土)、台風11号の影響により初のオンライン授業となった自律的キャリア教育において下村圭子さんに講演いただきました。下村さんは女子美術大学の芸術学部日本画専攻を卒業後、特許庁に入庁。約30年間意匠審査官として活躍されており、現在は意匠審査官のトップである上席審査長を務めておられます。講演のタイトルは「美大から特許庁へ」。美術大学から行政機関に就職した経緯や特許庁での経験談を語っていただきました。

「つくる」から「守る」へ

母親がギャラリーに勤めていたこともあり、幼い頃から絵が身近な存在だったため、いつのころからか「絵を描きたい」という思いを持っていた下村圭子さん。女子美術大学の日本画専攻に進学します。大学時代は画材代を稼ぎ、社会経験を積むためにいくつかのアルバイトをしていましたが、ルーティーンの単調な仕事では自分の成長を感じることができない。絵画を描くことにおいても「自身の成長なくして、絵の成長もない」と考え、常にどこか焦りを感じながら大学4年間を過ごしました。そして「もっと勉強したい」「成長を感じたい」という思いから、現代美術の研究所にも通います。

就職活動を始めたのはバブルがはじけた後の就職氷河期。様々な企業にアプローチするものの良い返事はなく、履歴書に「女性」とあるだけで受け入れてもらえない。「さすがに心が折れそうになりました」と下村さん。就職を諦めて大学院への進学も考えるも、「社会に出てもっと成長したい」という気持ちや「自分の力で生きなさい」という姉からの言葉を受け、社会人になることを決意。

就職活動に奮闘していたある日。進路相談室で文字だけの地味なポスターを発見します。特許庁の人材募集ポスターでした。公務員はおかたいイメージがあり、自分が望むクリエイティブな仕事ではないだろうと思いつつも特許庁に務める大学の先輩に相談。すると「面白いところだから受けてみたら?」という返事をもらい、最終的に特許庁に応募をすることに。美術大学で絵を描いてきたからこそ、ものづくりがいかに大変かを理解していて、デザイナーが生み出したものを無碍にすることなく“宝物”として保護する意匠登録という制度に興味がもてたことも、応募の理由のひとつです。

つくる側から守る側へ。下村さんは美術大学から特許庁の職員として一歩を踏み出したのです。

仕事の醍醐味

特許庁に就職し、初めの4年間は修行期間として意匠審査について学びます。その期間はひとつのことをみっちり学んでいくため、自分のスキル向上など成長を実感することができ、学生時代に感じていた「成長したい」という気持ちの半分は満たされていました。

しかし、残りの半分は、これでいいのかという焦りの気持ちに苛まれます。自分が修行を続けるなか、デザイナーや教師になり実績を積んでいる同級生を見て、遅れをとっている気がしてならない。周りとの差に焦りを感じながら過ごした4年間でもありました。

そんな修行期間を経て一人前の審査官となり、審査官以外の業務も始まります。国際関係の業務にも携わり、英国に滞在し語学を学びながら欧州のデザイン保護制度なども研究しました。帰国後は国際関係の部署に所属。世界各国の特許庁との連携など、大きな視野に立つ業務を通して、仕事の楽しさや自分自身の成長を感じるようになりました。また、仕事に全力で取り組む先輩に大いに影響を受け、かつては感じ得なかった達成感や清々しさなど、「仕事の醍醐味」を学ぶことができました。

諦めたり捨ててしまったりしない限り夢はかなう

様々な業務を通して仕事の楽しさを見出していった下村さん。その後、結婚、出産と大きな環境の変化もあり、一時的に仕事から離れ、子育てと家庭に専念します。仕事に穴を開けざるを得ない状況となり、世間から取り残される不安もありましたが、周囲の助けもあり、無事に職場へ復帰。「助けてもらった御恩は必ず返そう」とよりいっそう仕事に熱が入ります。

令和元年、大きな転機が訪れます。デザインがモノからコトへ大きくシフトするにともない、意匠法が大改正をされることになったのです。当時、制度運用を検討する部署にいた下村さんは、審査基準の整備などの業務に従事し、できるだけ多くのユーザーが納得できるような案を考えました。関係各所との意見交換は半年間で100回以上、息つく暇もなく働く日々。改正の業務が終わった後、チームメンバーは「この2年間がいちばん楽しかった」と振り返り、大変な仕事こそやりがいがあり、楽しさが見出せるのだと再認識します。

「諦めたり捨ててしまったりしない限り夢はかなう」。これは大学時代、教育実習先での生徒の言葉です。特許庁の業務はビジネスに与える影響も大きく、立場によっては、その責務もより大きくなります。思うような結果が出ず、白旗をあげたくなったこともあります。そんなとき、この言葉を思い出し、折れそうな心を繋いできました。どんな無理難題にあっても、叶えたいという気持ちとともに諦めないことが大事。その諦めない気持ちが特許庁での勤続30年という年月をつくったといっても過言ではありません。

「作品に対する思いを権利に変えて届ける」。下村さんが選んだ特許庁職員という道は、この仕事でしか味わうことのできない「働くことの醍醐味」を教えてくれました。下村さんはデザインやものづくりをする全ての人とって、大切なものを守ってくれるヒーローのような存在なのです。

下村圭子

特許庁審査第一部情報・交通意匠 上席審査長。1994年特許庁入庁。家電製品や建築用品などの意匠審査を歴任しつつ、国際課、意匠制度企画室、審判34部門、意匠審査基準室長、審査監理官、意匠課長を経て現職。令和元年の意匠法改正や、数次の意匠審査基準改訂に従事。

特許庁webサイト

本レポートは、自律的キャリア教育として、社会で活躍する女性にご講演いただき、学生が聴講、インタビューしてレポートを作成しています。
指導教員:石橋勝利 株式会社アクシス デザインデベロップメント ディレクター